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青木 孝行Takayuki Aoki
学生時代に買ったタイプM
最初はノーマル形状のダンパーだけ
スカイラインタイプMにレカロ装着が転機青木選手がスーパーGTにデビューしたのは00年。翌年にはシルビアでGT300クラスのチャンピオンに輝いている。28歳のときだ。 意外にキャリアは遅咲き。今のレース界では、エリートコースを歩んでいかないと、それなりのマシンには乗れないと言われている。ちなみにエリートコースというのは、幼少時代からカートに乗り、FJ(フォーミュラ・ジュニア)などの入門フォーミュラにステップアップ、さらにF3やフォーミュラ・ニッポン……。寄り道をせずにストレートにここまで駆け上がっても、今の日本国内だとウン千万円が必要だと言われている。そう、寄り道でもしようものなら億の単位になる。 こんな話から始まると夢も希望もなくなってしまうが、この世界も捨てたもんじゃない。多少、ビンボーでも駆け上るための道はある。 「高校3年のころかな。ちょうどF1でセナやプロスト、マンセルが熱いバトルを繰り広げていてね。それでいっきにクルマが好きになったんですよ」。ただ、このときから青木選手がレースを目指していたわけではなかった。 青木選手が最初に乗ったクルマは、R32型のタイプM。「GT-Rが欲しかったけど、学生にはそんなお金がなくて……」と振り返る青木選手。雑誌を見て、いかに金をかけないでカッコ良くするかを研究。いじるのも好きだった青木選手は「そのまんまだとはみ出ちゃうから、叩かないとダメなんだけど、GT-Rの純正ホイールに、カヤバのノーマル形状対応のダンパーを付けました」。とにかく、お金がなかったから中古パーツが中心。それでもいくつかは新品を買ったという。「当時、選挙の手伝いのバイトをしていて、1ヵ月のバイト代が16〜17万円。それが全部、フッ飛んだんですよ、レカロのリクライニングを買ったら……」。 ただ、このレカロを買ったころから、微妙に考え方も変わっていったのも事実。「とくにタイヤとブレーキかな。最初はタイヤも値段と流行で選んでいたんだけど、いまひとつ、納得がいかなくてね。こっちの方が高価だけど、いいみたいだからって、グランプリM5からグローバに買えたんですよ。この頃から峠だけでなくサーキットにも行くようになったかな」。 フツーに走っていたら、性能の違いはわからない。でも、限界付近で走ると、タイヤに限らずブレーキやサスなどの違いがわかる。もちろん、セッティングの重要性にも気がつくことになる。 学校を卒業後、トヨタのディーラーにメカとして就職した青木選手。「安定した給料がもらえたこともあり、ある日、突然、レースをやるぞ!と」。ところがなんのコネもない。とりあえず、鈴鹿サーキットに行けば、なんとかなる。そう思ったらいてもたってもいられず、鈴鹿サーキットで最初にみつけたレーシングガレージに飛び込んだという。そこで売りに出ていた中古のFJマシン。たいしたお金もないのに、後先考えずに買っていた。 資金作りのために、タイプMを売ることになるが、青木選手にとってはこれが大正解だった。そのFJでレースに出て、翌年にはF4にステップアップ。フォーミュラからは離れることになるが、ニッサンのスカラシップでGT選手権に参戦できるチャンスをもらった。先に書いたようにチャンピオンになり、スーパー耐久でも活躍。いっきに若手の注目ドライバーとなった。 ただ、それでもレースで生計が立てられるところまではいかず、ビンボー生活だったと言う。いくらレーシングカーを購入しても、アシがないとサーキットに行けない。「ディーラーのメカだったから、セールスの人に頼んで、廃車になる下取り車をまわしてもらってね。車検がわずかでも残っているのを何台も乗り継いでいました。ガソリンも解体屋に持っていく前の廃車は必ずチェックして、少しでも残っていたら、それを抜いて……。そんな生活でしたね」。 ドリフトという走りにも学ぶところはある最近はD1でも活躍する青木選手。「TVの企画から始まったんだけど、けっこう、楽しんでいます。同じクルマを使った競技だけど、走りはまったくの別物ですよ」と言う。たしかにレースでのブレーキングはフルブレーキングだが、D1ではそんなブレーキングはない。ステアリングにしても、レースでは必要最小限の範囲でしか切らないが、D1ではフルに切っていくことが多い。 それでも青木選手は、D1で学んだことがあるという。「レース中にスピンしたときでも、コースに残れれば、最小限のロスでレースに復活できますからね。もちろん、スピンしないことに越したことはないんだけど……」。いろいろなことに挑戦している青木選手、まだまだ、走りは進行形のようだ。 |
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